巨大な面積を誇る大都市、春木。
その地下にはたくさんの線路が何重にもせめぎあうように走っていて、まるで蜘蛛の巣が張られたようになっている。
そんな複雑な線路の中の、地下鉄車両の中で俺と彩は揺られていた。
「やっぱり、人多すぎ」
例の制服姿の彩は、不満そうに口を尖らせている。ベージュの学校指定鞄を踏まれないように抱える様子は健気で微笑ましい。
彩の言う通りで、俺たちの周りは相当数のおっさんと若い学生達で埋まっていた。
「ちょっと息苦しいよね……でもさ、こんなにたくさん人がいるのも……」
「全然すごくない。むさ苦しいだけ」
壁しかない窓の外を眺める彩の顔に、すごいスピードでライトの光が流れていき、ツインテールの金髪が、つやつやとそれを反射する。
「まあ、彩はあと数駅で降りれるんだから我慢しなよ。市民ホールなんかまだまだ遠いんだぞ」
彩はけだるそうに俺を見た。
「でもやっぱり電車やだ……明日からバスにしよ」
「バスだって混んでるよ」
「うう……じゃあ自転車買おう。祐がペダルこいで、わたしが後ろに乗るの」
「そうすると早起きしないと学校間に合わないよ? それでもいいの?」
彩は膨れっ面をした。
「じゃあがまんする」
「よろしい」
そう言う俺はスーツ姿だった。なんだか真面目なサラリーマンにでもなった気分だ。こんな服装は今日が過ぎたらしばらくしないだろう。
今日は俺の大学の入学式でもあり、彩の中学の入学式でもある。彩の中学は俺の大学の附属で、両者の校舎はすぐ近くにある。しかし今日は別々の駅で降りなくてはならない。大学の入学式は市民ホールで行われる。
「小桜、小桜――」
駅名がアナウンスされ、車両が停止した。ぞろぞろと人が降り、少し余裕ができた。
「ふぅ」
彩がため息をついた時だった。
さっき降りた人たちよりも多い数の人々が、怒濤のように雪崩れ込んできた。
「わっ……むふっ」
彩が背中を押され、よろめいて俺のみぞおちあたりに鼻をぶつけた。
「おっと」
それを受け止めたせいで抱き合うような形になっていた。
ドキリとした。彩にここまで近づくのは数年ぶりだった。見下ろすと金色のつむじがあった。真新しい制服の匂いと、ほんの少し、シャンプーのいい匂いがした。
「彩、大丈夫?」
あんまり密着していたから、てっきり嫌がられるかと思ったが、彩はおとなしかった。
「……」
顔もあげず、黙っている。
服越しに彩の息づかいが伝わってきて、奇妙な緊張感があった。早く離れたほうがいいような、このまましばらくくっついていたいような。
とくん、とくんという心臓の音が聞こえた。自分のか、彩のかはわからないが。
次の駅のアナウンスが鳴り、あっという間に時間が過ぎたことを知った。電車がとまり、人が降りていき、彩がそっと離れた。
ちらっと俺を見あげて、すぐに目を反らす。落ち着かなく鞄を指でいじっている。
何だか変な雰囲気だった。
「祐、あついよ……汗かいちゃった」
「そうか? それよりもう発車するぞ」
「……うん」
彩は何か振りきるように、たったっと車両から降りていった。
ともかく仲に亀裂は入っていないようで、安心した。
》》》
ああもう! どうしてこうなったの?
もどかしさで一杯で、貧乏ゆすりをしていた。今、わたしは一人満員電車で押し潰されている。息苦しい。
混雑した電車乗り換えで祐くんたちに遅れ、はぐれてしまった。すごく慌てた。行き着く駅の名前しか覚えていなくて、どの電車を使うか、なんてことは祐くんに任せきりだった。地下だから携帯電話もつながらない。
なんて不運なの……神様、こんな時に試練なんかいらないのです。祐くん、探しに来てくれないかなぁ。
しばらくおろおろしているうちに、駅員さんに訊けばいいことに気付いた。
でも電車に乗ってからも気持ちは落ち着かなかった。
早く追い付きたくても、電車ではどうしても追い付けないのが嫌だった。祐くんが待っていてくれなければ、今日はもう家に帰るまで会えないかもしれない。人が多すぎるのだ。
どうしよう……一人じゃ不安だよ……。
こんなに人は多いのに、知り合いは一人もいない。心細さが身に染みた。
》》》
彩がいなくなったところで、萌恵が心配になってきた。
頼りないやつだからなぁ……神頼みにして、違う方面の電車に乗っていないといいけど。
ますます車内は混雑している。信じられない光景だった。人がこんなにたくさんいるのに、誰も話さず、大抵の人はスマートフォンをいじって、一人の時間を過ごしている。違和感はあったが、なるほどそれぞれが騒ぎだしたらとても耐えられないなとも思った。
やはりこんなに電車に人を詰め込むなんてどうかしている。
その時だった。電車が急に揺れた。ざわりと乗客がどよめくほど。
バランスを崩し、どこかに掴まろうとした。足場がなく倒れそうで必死になった。
だが掴まるものはなかった。近くにいた人にぶつかった。
「ひゃっ」
だがその人は支えきれなかった。俺はどうしようもなく倒れ、床に手をついた……はずだった。手が何か柔らかいものに触れていた。
体を起こした……なんだろう、この感触。
「……!」
それを見て、愕然とした。寒気が一瞬で身体中を走った。
女の子が俺の下に倒れていた。
しかも俺は彼女にのしかかっていて――指はその胸に食い込んでいた。
目の前に、大きな黒い瞳があった。目があった瞬間、時間が止まったように感じた。
綺麗だった。
自分が置かれた状況を忘れてしまうくらいに。
その子の顔つきは上品で、髪型はハーフアップ。どこかお嬢様的な雰囲気があった。顔を赤らめ、恥ずかしそうに眉を寄せていて……ごくりと唾を飲んだ。
服は淑やかながらも気品ある薄紫のブラウスで、そのうえなんだか甘くてお上品ないい匂いが彼女から漂ってきている。
胸はちょうど手に収まるくらいの大きさで、感触はまるでマシュマロのよう……。
女の子にここまで心を動かされたのは初めてだった。
魅入られていた。しばらくそのまま動かないでいた。
そのせいもあったのだろう。その女の子は震えていながらも、目一杯の悲鳴を車内に響かせた。
「ひゃあぁぁぁぁぁっ!」
乗客のゴミを見るような視線を痛いくらいに集め、若干罵声も聞き、俺は次の駅で車両から押し出された。たぶん駅員が駆けつけてくるんだろうなと思いつつも、相手の女の子のほうが気になっていた。
その子は一緒に地下鉄を降り、目の前でしゅんと目を伏せていた。
その自信なさげな立ち姿を見て、目が離せなくなった。あまりにも弱々しい印象で、助けてやらねばならない気がした。
どうしてこんなに頼りないのかと考えると、髪型が一役買っている気がした。
つやつやしたまっすぐな黒髪は、胸のあたりまで伸びているのだが、前髪が長く、目に少し被さっていて、なんとなく幸薄げなのだ。
黙っているのが可哀想だった。
話さなくては。何から話せばいい?
俺に負い目はないと思うが、とにかく謝るのが先だろうか。
「君……その、さっきはごめんね」
そっと声をかけると、黒い前髪ごしに俺を見た。怖いものの様子を窺うように。
「でもわざとじゃない……わかってるでしょ? 電車があんなだからいけないんだ」
目を合わせようとすると、また前髪の奥に消えた。嫌な予感がした。
「まさか俺のこと、警察に連れて行くつもり?」
「そ、そんなこと……」
緊張したような、か細く震えた声だった。
可愛い声だと思った。この子が黙って一体何を考えているのか、猛烈に知りたくなった。
「……そんなに怯えないでくれよ。俺はあんなつもりはなくてさ。ったくあんなに揺れるなんてどうかしてるよね」
「……」
「君もそう思うでしょ?」
「……」
「あーあ、地下鉄乗るんじゃなかった」
「……」
何か声に出していれば、いつか言葉を発してくれるのではと思って、根気よく続ける。島と違って、今、仲良くならないと次にどこで会えるかわからないのだ。
「俺、地下鉄乗るの初めてでさ……ここまでだとは思わなくて」
そう言った途端、いきなり反応があった。驚いた表情を見せ、前髪の間から大きなぱっちりした瞳を覗かせた。
「初めて、なんですか?」
「ああ。俺最近この街に来たばっかりなんだ」
「わた、わたしもです!」
これまでよりはっきりした声だった。チャンスだと思った。共通の話題が見つかって安心した。
「そうなの? 俺、巡島ってところから来たんだけど、わかる?」
「あっ。あの沖合いの島です………か?」
「そうそう。聖堂があって有名だし、一回くらい来たことあるんじゃないかな」
「……な、ないです。ごごめんなさい」
彼女は頭を下げた。本当に申し訳なさそうで、見ている方が困った。
「別に謝らなくても……ええっと、君はどこから来たの?」
そう聞くと、妙な沈黙があった。何か隠し事でもあるのかもしれない……ますます興味が湧いた。
「それは……あの、ごめんなさい……」
声がどんどん小さくなっていった。聞き取るのがやっとだった。
「ああ、そうだよね。見知らぬ他人にそんなこと教えないよな……自己紹介してなかった。俺は蒼崎祐。君は?」
しばしの沈黙の後、呟いた。
「水無月《みなづき》……桐華《きりか》です」
涼しげな、清楚な名前だと思った。似合っていると思った。
「じゃあ、水無月さんって呼べばいいかな」
「はい……蒼崎、さん」
どうも堅苦しさが抜けない。でもそれが彼女らしさなのかもしれない。
俺は、彼女をどうやって連れ出すか……さっきからそればかりを考えていた。縛られて、固まっている感じのこの子を解きほぐして話を聞きたかった。
「水無月さんって、もしかして春木大学?」
はっとした様子で俺を見た。ちょっと嬉しそうだった。
「あ、蒼崎さんも、そうなんですか」
「一緒に入学式行かない?」
「えっ……」
またしても沈黙があった。不安そうな目付きをしている。
「大丈夫、俺変な人じゃないから……さっきのことは頼むから忘れてよ」
水無月の耳がぽっと赤くなった。
そこに誰かが近づいてきた。小太りの駅員だった。
「やったのは君か! ちょっとこっちに来なさい、ほら」
「すみません、もう解決してますから」
俺は水無月に目配せした。彼女はおどおどと喋った。
「その、わたしは大丈夫なんです……ご迷惑を、おかけしました」
駅員は眉をひそめた。俺を睨んだ。
「そんなわけないでしょう。ねえ」
確かにこの子じゃなかったら、許してくれなかったかもしれないと思い、背筋が寒くなった。
「この人に言いくるめられたのなら、正直にいったほうがいいですよ」
「だ大丈夫です…………わたしに、任せてください」
水無月は下を向いたまま喋っている。会話はどうにも苦手らしい。
「うーん、それなら……いいんですが」
駅員も自分が彼女を責めている気になったのか、たじたじしている。
俺はその淑やかさに心を奪われていた。こんなにも清純な彼女は一体何を考えているのか、もっと知りたい……考えが浮かんだ。
「水無月さん、さっきのお詫びに、お昼おごるから、それでいい?」
「え? ……そんな、申し訳ないです」
めげずに言葉を被せる。
「本当に悪かったと思ってるんだ。お詫びしないと、こっちが気分が悪い。頼むよ」
水無月は俺をじっと見た。なにか考えを巡らしているようだった。
「それは……いいんですか?」
「俺がそうしたいんだよ」
「ごめんなさい……」
この子……なんて控えめないい子なんだ。文句ばかり言う彩に爪を煎じて飲ませたい。
「じゃ、とりあえず入学式行こうか」
「はい……」
水無月のことで頭が一杯で、すっかり萌恵のことは忘れていた。
(つづく)
「ふたなり寮へようこそ」を最初から読む
おすすめ作品紹介
- 関連記事
-
- アンステイブルラブガーデン(6)
- アンステイブルラブガーデン(5)
- アンステイブルラブガーデン(4)